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抽象の原点は日本にあり


Writer : matsushi


Type/ : 2021-04-04 / blog

そもそも、絵画は抽象的な創造物である。
現実の、あるいは当事者の感じた心象を切り取って絵の具で描く。
そこに鑑賞者の感じるところがあるかどうかはその絵に意味があるかどうかで決まる。
意味は必ずしも表面的な表象対象に存在するわけではない。
現代人にとってはもはや言うまでもない、はずだ。
昔、僕の子供の頃はそこが分からない人が多かった。
人が描いてあるから人の絵だ、風景が上手に描いてある。
何が描いてあるか分からないからその絵が理解できない。
という短絡的な評価をよく聞いた。
作家がそんなことを問題にしているわけがない。
そこが抽象性である。

日本には古来よりから俳句や、書があった。雅楽や能があった。
ヨーロッパに比べて抽象的概念が発達していたのだろうと思う。
中国はもちろん書や水墨画の元祖だから東アジアには独特の美意識があって、それが今日ZEN、「禅」として欧米に認識されているものなのだろう。
ただ、欧米人にとっては東洋の哲学として解釈されているようだが。

浮世絵が19世紀ヨーロッパ、特に印象派に対して影響を与えたのは有名である。
その後ピカソなどはアフリカ美術に影響を受けて抽象画を描いた。
周り回ってちょっと前の(僕の子供の頃の大人である)日本人がピカソの絵を見てなんだか分からない、と言っていたのは戦後の日本人が抽象を味わう意識の余裕が無くなっていたのだろうと思う。

さて、今なら、ポストモダンの現代なら世界の人たちは抽象を味わう美意識が持てているはずであり、ちょっとやそっとのことではビックリしないはずである。
我々が消費している芸術的表現、抽象的表現には皆さん満足しているだろうか。
日本ではややもすると中高生の娯楽レベルになっていないだろうか。
大人の脳内麻薬が活発化するような表現に出会えているだろうか。
もしくは、作り手は成熟した大人が鑑賞できるような作品を作れているだろうか。

現在の日本は経済が二極化しているとよく言われる。
いわゆるデフレの常態化と富の集中の混在である。
放っておくと自由主義、資本主義にとって必然的なのであり、それは政治の怠慢なのだが、今は政治の話をしたいわけではなく、芸術的表現の二極化につても思い至ることがある。
井戸端会議や酔っ払いの共通語としての流行り廃り、オタクの萌え対象、SNSの自意識…
日常的に日本の成熟した文化を享受する機会がもっとあってもよいと思いませんか?

もっと意味を考えよう。
受け手が意味を考えてくれることを信じて作り手は作ろう。
自信を持って抽象的表現を発信しよう。
LGBTやBLMと同じくらいの自由を作家に与えよう運動。
新しい日本人に脱皮する宣言。

これは誰の怠慢だろう?
などと考えている今日この頃です。

©️PlanetWave